そのとき画家は何を見つめていたのか
1912(明治45)年に東京で生まれた松本竣介(本名:佐藤俊介)は、少年時代を岩手で過ごし、13歳のときに病いのため聴力を失ったのち、画家を志すようになりました。1929年には上京し、舟越保武や麻生三郎ら同時代の芸術家たちと交流を重ね、ともに新時代の絵画、芸術、社会を求めて制作に励みました。1935(昭和10)年の秋には、第22回二科展で《建物》が初入選を果たし、画家としての地歩を固めます。またこの頃、松本禎子と結婚し、それを機に改姓して新たな生活をスタートさせ、同時に夫妻でエッセー(随筆)をテーマとした月刊誌『雑記帳』(全14号)を創刊。広く時代の思潮を見渡す経験を重ねてゆきました。
竣介の画風は短期間にめまぐるしく変化しつづけています。黒い輪郭線による初期の骨太の描写から、青を基調とした曲面による幻想的風景、そして線描により描き出された合成的な都会の喧騒まで、前半生には独特の色彩と構成による想像的絵画を制作しつづけました。しかし、1940年あたりを境にその画風は一変。別人のごとき画家・竣介の後半生がここから始まります。一連の写実的自画像に発する内省的傾向は、代表作《画家の像》や《立てる像》へと発展し、同時に身近な人物や都会の一隅を実写した精緻な作品が多数描かれました。一連の《Y市の橋》などはその典型といえるでしょう。軍国化へと急傾斜していった時代を背景に、その画面は暗く謎めいた静寂をたたえているかにも見えますが、画家はここへ来ていよいよ、絵画に対する熱い想いを深めてゆきます。そして敗戦後、今度は粗い筆致による抽象的画面が、独特の赤褐色の地色とともに突如、登場しました。しかし、この第二の激変の端緒にあって竣介は、1948年、病いに倒れあえなく36歳の若さで夭逝してしまいました。
本展は、昭和前期の日本近代洋画壇に重要な足跡を遺し、現在も尽きせぬ魅力を放ちつづけている画家・松本竣介の足跡を、生誕100年を機して大きく回顧する企画です。わずか20年ほどの短い画歴ではありましたが、遺された油彩や素描の数は多く、かつ驚くほど多彩な展開を見せています。新時代の絵画を求めて飽くなき探求を重ねたひとりの若き画家の人生を、本展では改めて、今日的な視点から見つめなおすことを目指しています。
竣介の画風は短期間にめまぐるしく変化しつづけています。黒い輪郭線による初期の骨太の描写から、青を基調とした曲面による幻想的風景、そして線描により描き出された合成的な都会の喧騒まで、前半生には独特の色彩と構成による想像的絵画を制作しつづけました。しかし、1940年あたりを境にその画風は一変。別人のごとき画家・竣介の後半生がここから始まります。一連の写実的自画像に発する内省的傾向は、代表作《画家の像》や《立てる像》へと発展し、同時に身近な人物や都会の一隅を実写した精緻な作品が多数描かれました。一連の《Y市の橋》などはその典型といえるでしょう。軍国化へと急傾斜していった時代を背景に、その画面は暗く謎めいた静寂をたたえているかにも見えますが、画家はここへ来ていよいよ、絵画に対する熱い想いを深めてゆきます。そして敗戦後、今度は粗い筆致による抽象的画面が、独特の赤褐色の地色とともに突如、登場しました。しかし、この第二の激変の端緒にあって竣介は、1948年、病いに倒れあえなく36歳の若さで夭逝してしまいました。
本展は、昭和前期の日本近代洋画壇に重要な足跡を遺し、現在も尽きせぬ魅力を放ちつづけている画家・松本竣介の足跡を、生誕100年を機して大きく回顧する企画です。わずか20年ほどの短い画歴ではありましたが、遺された油彩や素描の数は多く、かつ驚くほど多彩な展開を見せています。新時代の絵画を求めて飽くなき探求を重ねたひとりの若き画家の人生を、本展では改めて、今日的な視点から見つめなおすことを目指しています。