世田谷区在住の彫刻家向井良吉(1918-)は、日本の民家を描き続けた洋画家で知られる兄、向井潤吉の影響下に、幼い頃から彫刻家を目指し、1941年に東京美術学校の彫刻家へ進みます。しかし、第二次世界大戦の勃発により、彼は南太平洋のラバウルに配属され、生死の境をさ迷う過酷な戦争体験をします。この経験は、戦後の混乱期から急速に発展していく日々の生活とともに、向井のその後の作品に深い影響を与えることになりました。
戦後向井は、日本では余り馴染みのなかった抽象彫刻に積極的に取り組み、プラスチック、アルミニウム等の新素材や、当時日本では珍しかった蝋型鋳造の技術等を駆使し、自己の内面とじっくり向き合った独自の造形世界を築き上げます。
彼は、鋳造の段階で原型の隙間に流れ込む金属の余分な部分(バリ)を削って滑らかにせず、素材の持つ勢いや偶然性をそのまま生かしながら、有機的なフォルムを形成します。
一方で、向井は様々な芸術分野との協調関係を模索し、マネキン会社、七彩工芸の設立、画家と彫刻家が協調し、陶磁器を制作する「火の芸術の会」への参加、東京文化会館の音響壁面の制作や、最近では、タペストリーや劇団民芸の舞台装置のデザイン等を手掛けています。また、1960年代からは、山口県宇部市野外彫刻展の運営委員も務めます。
本展では、代表作品61点の他、タペストリー、壁面レリーフ、舞台装置などもあわせて展示し、約100点の作品により、向井良吉の造形に対する多面的なアプローチをご紹介します。
戦後向井は、日本では余り馴染みのなかった抽象彫刻に積極的に取り組み、プラスチック、アルミニウム等の新素材や、当時日本では珍しかった蝋型鋳造の技術等を駆使し、自己の内面とじっくり向き合った独自の造形世界を築き上げます。
彼は、鋳造の段階で原型の隙間に流れ込む金属の余分な部分(バリ)を削って滑らかにせず、素材の持つ勢いや偶然性をそのまま生かしながら、有機的なフォルムを形成します。
一方で、向井は様々な芸術分野との協調関係を模索し、マネキン会社、七彩工芸の設立、画家と彫刻家が協調し、陶磁器を制作する「火の芸術の会」への参加、東京文化会館の音響壁面の制作や、最近では、タペストリーや劇団民芸の舞台装置のデザイン等を手掛けています。また、1960年代からは、山口県宇部市野外彫刻展の運営委員も務めます。
本展では、代表作品61点の他、タペストリー、壁面レリーフ、舞台装置などもあわせて展示し、約100点の作品により、向井良吉の造形に対する多面的なアプローチをご紹介します。