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現在、宮本三郎記念美術館で開催中の「宮本三郎と奥沢の芸術家たち」(2014年3月21日まで)。「奥沢」と聞いても、お近くにお住まいでないとなんのことだかわからない方も多いことでしょう。「奥沢」とは、世田谷区の町名の一つである世田谷区奥沢のこと。目黒区自由が丘、大田区田園調布と隣接する地域であり、宮本三郎が1935年から亡くなる1974年までアトリエ兼住居を構えた土地です。本展は、この界隈に多くの芸術家が居住していたことに注目し、画家だけではなく、以下総勢16名の芸術家を、世田谷美術館収蔵の作品や資料によってご紹介する展覧会です。
舞踊家:石井漠
小説家:石川達三、石坂洋次郎
洋画家:猪熊弦一郎、岡本太郎、末松正樹、利根山光人、宮本三郎、村井正誠、吉仲太造
日本画家:上野泰郎
水彩画家:富田通雄
彫刻家:澤田政廣、建畠覚造
美術家:榎倉康二、河原温
本展では、写真のとおり、会場入ってすぐの壁面に奥沢界隈の地図を大きく掲示しています。会場を訪れましたら、まず、そちらをご覧になって下さい。奥沢、自由が丘、田園調布、等々力、上野毛、二子玉川と、現在の東急沿線各駅の名称の下に、その近隣に住んでいた作家の名前も記載していますので、どの作家がどのあたりに住んでいたか、ということがこれで一目瞭然です。これはチラシの表面にもデザインしていますから、チラシをご覧になりながら会場を周るのもよろしいかと思います。
なぜ最初に地図をご覧いただきたいかと申し上げますと、今回の展覧会では、「芸術家たちの交流」をテーマのひとつにしているのです。たとえば、宮本三郎と、彼が挿絵や装幀を担当した小説家・石川達三との交流はどのようなものだったか。それは、展示している石川達三の書籍(宮本三郎旧蔵)や、石川達三が宮本三郎について書いた一文から明らかですが、そもそも、なぜそういった交流があったのでしょうか? 二人が同じく世田谷区奥沢に住んでいたということは、その大きな理由のひとつでしょう。また、世田谷区上野毛に戦後一時期居住していた岡本太郎と、宮本は交流しています。具象画家として知られる宮本と、前衛の旗手として活躍した岡本は、もしかしたら中々その関係性を想像しにくいかもしれません。しかし、二人は戦前のパリで出会い、戦後岡本がその代表作《痛ましき腕》(1936年/1949年)を再制作した際には、岡本は宮本のアトリエにその作品を持参しているのです。二人の親しい間柄を感じさせるエピソードですが、これも、上野毛と奥沢という近距離にお互いが住んでいたということと無関係ではないでしょう。
今回展示室では、展示中の作家が、他の展示中の作家について述べた言葉も壁面に掲示しています。たとえば、宮本三郎が石井漠について書いたこと、岡本太郎が末松正樹に言ったこと、河原温が吉仲太造について論じたこと、などなど。それらは会場でご覧いただきたいと思いますが、ひとつだけ、石川達三が宮本三郎について述べたことをご紹介して、第1回目のブログを終わりにすることにしましょう。
「会っていると、彼は怕(こわ)い眼付きをした。物を見据える眼であった。自分では気づいていないかも知れない。四方に気を配る眼ではなくて、一点を凝視する眼だった。彼の絵はまず見ることから始まっていたのかもしれない。」(石川達三「宮本三郎私観」、『宮本三郎の世界 花と裸婦と…』、1978年)
会期も残り少ないですが、このブログでは、3回にわたって、展覧会の見どころをご紹介します。ぜひ、この界隈で育まれたひとつの文化圏での芸術家たちの交流をご覧いただきたいと思います。